前田日記(写真集)
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甲子園に出場した卒団生
この夏も高校球児達に感動をさせてもらった。

各地の予選や甲子園。
グランド、ベンチ、スタンドでの姿。
また、選手以外の方々からも感動を受取ることができた。

これも永年に亘り、甲子園という大会が創り上げてきた歴史であり、
夢を追い続けることの素晴らしさ、
その姿を応援することの素晴らしさ、
勝敗に関係なく相手を称えることの素晴らしさ、
そして、感謝。
今、自分がこの場所に立っていることへの感謝だ。

そう感じることができたとき、
彼らは、高校野球の本当の意義を理解し、人間として成長することだろう。


■全国高等学校野球選手権大会の歴史

・1915年 第1回 全国中等学校優勝野球大会が豊中球場で行われる。
・1916年 第2回 敗者復活制度が施行される(1917年の第3回まで)。
・1917年 第3回 会場が鳴尾球場に変更される。
・1918年 第4回 米騒動の影響で出場校は出揃ったものの中止。
・1924年 第10回 会場が甲子園球場に変更される。
・1933年 第19回 準決勝の中京商対明石中の試合が延長25回で決着。中京商は第17回大会から大会史上唯一の3連覇。
・1940年 第26回 全日本中等学校体育競技総力大会の一部門として開催。この大会を最後に外地の地区予選が消滅。
・1941年 第27回 太平洋戦争の影響で地区予選の途中で中止(-1945年)。
・1946年 第28回 全国中等学校野球連盟結成。西宮球場で大会を再開。
・1947年 第29回 会場が再び甲子園球場になる。
・1948年 第30回 学制改革により全国高等学校野球選手権大会に名称を変更。
・1954年 第36回 宮崎県代表の高鍋が出場したのを最後に、
 当時アメリカ施政下にあった沖縄県以外の空白県が消える。
・1956年 第38回 初のナイター試合(伊那北対静岡)。
・1957年 第39回 勝利校の校歌演奏と校旗掲揚が開始される。
・1958年 第40回 40回記念大会として、全国各都道府県と沖縄(当時アメリカ施政下にあった)の代表を含めた47校で開催。西宮球場と2会場に分かれて開催された。準々決勝の徳島商対魚津は春夏通じて初の規定による引き分け再試合となる。
・1959年 第41回 北海道代表が南北2代表に分かれる。
・1960年 第42回 打者用ヘルメットの着用が義務化。
・1962年 第44回 作新学院高等学校が初の春夏連覇達成。
・1963年 第45回 45回記念大会として、全国各都道府県(北海道は2代表)と沖縄(当時アメリカ施政下にあった)の代表を含めた48校で開催。このため西宮球場と2会場に分かれて開催された。
・1965年 第47回 走者に対してもヘルメットの着用が義務化。
・1968年 第50回 50回記念大会として、全国各都道府県(北海道は2代表)と沖縄(当時アメリカ施政下にあった)の代表を含めた48校で開催。西宮は使用せず、全試合を甲子園で開催した。以後、全ての大会が甲子園で開催されている。
・1969年 第51回 松山商対三沢の試合が、春夏通じて初の決勝戦引き分け再試合。翌日の再試合は松山商が勝利し優勝。
・1972年 第54回 耳付きヘルメットの着用が義務化。
・1973年 第55回 55回記念大会として、全国各都道府県(北海道は2代表)と沖縄(前年アメリカから日本に返還)の代表を含めた48校で開催。
・1974年 第56回 金属バットを採用。東京代表が東西2代表に分かれる。
・1978年 第60回 60回記念大会として、全国各都道府県(北海道、東京は2代表)代表の49校で開催。この大会から88回大会まで、初戦が東西対決になる。
・1979年 第61回 この大会より、正式に現行の49代表制で開催。箕島が公立高校で唯一の春夏連覇を達成。滋賀県代表の比叡山が勝利を挙げたのを最後に未勝利県が消える。
・1992年 第74回 高知県代表の明徳義塾が石川県代表の星稜・松井秀喜(現・N.Y.ヤンキース)に5打席連続敬遠を行い、大きな問題に発展。
・1996年 第78回 松山商が優勝し、春夏を通じ「大正」「昭和」「平成」の3年号連続の優勝を達成。
・1997年 第79回 この大会より、開会式及び閉会式の司会進行役が選出された現役高校生の男女各1名になる。
・1998年 第80回 記念大会。埼玉、千葉、神奈川、愛知、大阪、兵庫の各地区を2分割し、55代表校で実施。横浜高校が春夏連覇を達成。松坂大輔が59年ぶりとなる決勝戦でのノーヒットノーランを達成。
・2003年 第85回 準々決勝を選手の健康負担を理由に「1日2試合ずつ、2日間の日程」で開催。ただし雨天順延が3日続いた為予定を変更し、従来通りの「1日4試合」で開催された。
・2004年 第86回 南北海道代表の駒大苫小牧が東北・北海道勢として初優勝。
・2005年 第87回 明徳義塾が発覚した不祥事を理由に出場を辞退し、高知が代替出場。駒大苫小牧が史上6校目(学制改革後では初)の2連覇を達成。
・2006年 第88回 駒大苫小牧対早稲田実業の試合が大会史上2度目(延長15回引き分け再試合制度になってからは初)の決勝戦引き分け再試合。翌日の再試合は早稲田実が勝利し優勝。山形代表(日大山形)のベスト8入りにより、47都道府県の代表校全てがベスト8以上を記録。
・2007年 第89回 60回大会以降定着していた組み合わせ抽選における東西対決方式を廃止。また、春の大会同様にダートサークルが追加。決勝戦の佐賀北対広陵の試合における、8回裏のストライク・ボールの判定に対し、広陵の監督・中井哲之が試合後にメディアを前に苦言を呈したが、後日日本高野連会長から口頭での注意を受け、謝罪の意を表明した。監督が、メディアの前で審判の判定に苦言を呈したのは、極めて異例なことであった。決勝戦の球審を務めた桂等は、件の判定に対して、「あれ(問題となった一球)は低かった(即ち、ボール球であった)」と説明している。なお、広陵の選手が審判の判定を批判した事実は一切なく、佐賀北も含めた両校の選手とは、何らの関係もない問題である。
・2008年 第90回 開催日が当初8月8日開幕となっていたが、北京オリンピックの開催期間に重なるため、会期を史上最速の8月2日開催にすることと、記念大会により出場校は80回と同様に埼玉、千葉、神奈川、愛知、大阪、兵庫の各地区は2分割、史上最多タイの55代表校で実施。スケジュールの都合上、出場55校が大阪に集結した抽選会は省略され、地方代表決定戦終了後に組み合わせ抽選が行われる。


■選抜高等学校野球大会の歴史

・1924年 第1回 和歌山中学が大毎野球団に働きかけた事により[3]、選抜中等学校野球大会として山本球場(のちの八事球場)で開催。
・1925年 第2回 会場を夏の大会と同じ甲子園に変更。以降、甲子園で開催するようになる。
・1926年 第3回 ラジオ中継開始。
・1927年 第4回 大正天皇崩御の関係で4月下旬から開催し、決勝戦は5月に開催。優勝校のアメリカ遠征制度が開始。
・1929年 第6回 今大会から勝利校の校歌演奏と校旗掲揚が開始される。
・1932年 第9回 優勝校のアメリカ遠征制度廃止。
・1933年 第10回 前年度優勝校の無条件出場制度が廃止される。
・1942年から1946年までは太平洋戦争と、その終戦の混乱により大会は中止。
・1954年 第26回 テレビ中継開始。
・1959年 第31回 皇太子(今上天皇)の結婚式によって、決勝戦のテレビ中継が中止になる。
・1962年 第34回 準々決勝の作新学院対八幡商の試合が春の甲子園としては初の延長18回引き分け再試合となった(春夏通じて2回目)。
・1973年 第45回 山形県勢(日大山形)が出場したのを最後に空白県が消える。
・1984年 第56回 大会2日目第1試合の佐賀商対高島戦で、佐賀商の選手の打球がラッキーゾーンの手前でワンバウンドしてから入ったにもかかわらず本塁打(満塁)となる。同大会まで歴代優勝校名入りの白いプレートを外野フェンスに掲示することがセンバツの風物詩となっていたが、この事件がきっかけで同日を以てプレートの掲示を取り止めた。さらに翌年からレフト「主催:日本高等学校野球連盟・毎日新聞社」ライト「第57回 選抜高校野球大会」の表示も黒地に白文字に改める。
・1992年 第64回 今大会からラッキーゾーンが撤去される。
・1995年 第67回 今大会から従来開会式前々日だった組み合わせ抽選日を一週間前に繰り上げた上で、一日の割り当て試合数を原則最大3試合とし、会期を一日延長。これ以降11日間開催が定着する。外野のフェンスにはライト・レフト共に『阪神・淡路大震災』に関するメッセージが書かれていた(ライト側は高野連と毎日新聞社による「復興・勇気・希望」、レフト側は兵庫県と西宮市による「全国の皆さん、温かいご支援感謝します。」)。被災者や復興工事関係者に配慮して学校応援団には電車利用を促した上で鳴り物を自粛させる。
・1997年 第69回 日高中津分校が分校として初めて出場。
・1998年 第70回 日程が2日間順延のうえ、決勝戦当日も雨天の予報だったため試合開始を9:30に繰り上げて行う。優勝した横浜は夏も制し、春夏連覇達成。
・1999年 第71回 沖縄尚学が沖縄県勢として初優勝を果たす。
・2001年 第73回 今大会から21世紀枠が設けられる。
・2003年 第75回 今大会から神宮大会枠および希望枠が設けられる。準々決勝の東洋大姫路対花咲徳栄戦は、春・夏大会通じて初めての「引き分け再試合の延長戦」となった。
・2004年 第76回 今大会から準々決勝を選手の健康負担を理由に「1日2試合ずつ、2日間の日程」で開催。決勝戦当日は雨天だったため開始時刻を16:00と大幅に遅らせ決勝戦史上初のナイターとなる。
・2005年 第77回 天候を理由に、大会第0日目が設定された。高松が史上最高年ブランクで出場(72年ぶり)。
・2006年 第78回 新潟県の日本文理が勝利を挙げ、未勝利県が消える。
・2007年 第79回 今大会から本塁周辺にダートサークルのラインが追加(高校野球の公式戦では初)。
・2008年 第80回 今大会、外野フェンスの表示は右翼側に「第80回記念選抜高等学校野球大会」、「今ありて 未来も扉を開く 主催:日本高等学校野球連盟・毎日新聞社」、左翼側には「主催:日本高等学校野球連盟・毎日新聞社」と書かれている(「今ありて 未来も扉を開く」のフレーズは球場正面の横断幕にも記された)。なお、この大会では沖縄尚学が2回目の優勝を成し遂げるが、比嘉公也監督は71回で選手として優勝をしているため、同じ高校の選手・監督という異なる形で優勝を成し遂げることになった。(永田裕治以来)しかも、優勝した日が奇しくも同じ4月4日だった


■甲子園に出場した卒団生

【2005年 夏 第87回大会】
青柳 直樹(二期生)日本航空


【2006年 夏 第88回大会】
竹島 弘晃(一期生)千葉経大附
矢口 大樹(一期生)千葉経大附
赤坂 和幸(二期生)浦和学院


【2007年 春 第79回大会】
大島 寛之(二期生)千葉経大附
小野寺 良介(二期生)帝京
山田 京介(二期生)常葉菊川


【2007年 夏 第89回大会】
赤坂 和幸(二期生)浦和学院
小野寺 良介(二期生)帝京
山田 京介(二期生)常葉菊川


【2008年 春 第80回大会】
重谷 祐弥(三期生)千葉経大附


【2008年 夏 第90回大会】
蜂須賀 功平(三期生)日本航空
高味 勇斗(三期生)日本航空
重谷 祐弥(三期生)千葉経済大付
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・・・前田 隆
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by maeda_takashi | 2008-08-12 21:01 | 【前田日記】