前田日記(写真集)
ブログトップ
カテゴリ:【自己紹介】( 7 )
がんばる時はいつも今!
e0089732_22451353.jpg



     一生懸命な君達の姿が、 いつも感動を与えてくれます。

             いつまでも君達の夢を応援しよう。 

                   今を大切に!
 
               がんばる時はいつも今! 

                            ・・・Maeda

【自己紹介】
[名前]
前田 隆 (まえだ たかし)

[生年月日]
1967.11.25 (昭和42年)

[野球経歴]
南方小学校→西階中学校→延岡西高→三菱自工水島→読売巨人軍

[ニックネーム]
まえちん

[趣味]
 野球・旅行・親孝行

[尊敬する人]
 榊原 康造

[座右の銘]
 ・チャレンジして失敗を恐れるよりも何もしないことを恐れよ。
 ・今日という日はあなたの残りの人生の第一日目だ。

e0089732_1257325.jpg

[PR]
by maeda_takashi | 2002-02-01 01:59 | 【自己紹介】
小学生時代
【前田の野球経歴】

[小学生時代]

『おい、タカシ!個人競技より団体競技がいいだろう!?』

『空手じゃなく野球にしろ!』

この父親の一言から辛くて?楽しい野球人生が始まった。

近所の野球チームに入部したのは小学四年生の頃だ。

入部してすぐに投手をすることになり、

遊び程度に練習をしていたある日、父親から

『明日の朝からランニングと縄跳び、あとジャンプをしろ!』

と言われ、その当時素直だった?私は文句も言わず実行した。

しかし毎日続けていくうちに

「今日は、これくらいでいいや」と時間を調整し、

ごまかすことを覚えた。

そんな日々が2ヶ月ほど経過したある日、

3キロを走る事が義務付けられていた私は、

いつものように家が見えなくなると

走るのをやめ、時間だけをつぶしていた。

家に帰り縄跳び10分とジャンプ30回を終わらせた。

(このジャンプとは庭にある柿の木の枝に右手30回、

左手30回タッチをするものである。)

玄関を入り汗を拭きいつものように朝食を食べていたが

父親の気配がない。

「母さん!父さんは?」

「途中で会わなかった?」と母親は応えた。

・・・嫌な予感は的中!

・・・その後どうなったかはご想像にお任せします。


父親は折り返し地点で私を待っていたようだ。

私はこの日を境に真面目に走った。

それから一週間後、父親は『今日の夜から真剣に素振りをしろ!

30分間真剣に振れ!真剣にだぞ!』

私は毎日バットを握り外にでていたが

父親には真剣に振ってないように思えたのだろう。

次の日には新しいメニューが追加され

『学校までの往復をつま先で歩け!』ときた。

結局、三年間やり通した。

全体練習の後も

直径1mほどのタイヤを引っ張ることを欠かさなかった。

その甲斐あって多くの大会で優勝をすることができた。
[PR]
by maeda_takashi | 2002-02-01 01:58 | 【自己紹介】
中学生時代
[中学生時代]

『痛くても走っとけ!』

今まで体を痛めたことがなかった私は、

初めて絶えられない腰痛を経験し、

練習に行っても何もできない自分が嫌になっていた。

野球から気持ちは離れ、めでたく不良の仲間入り!

好きなときに野球に行き、気が向かなかったら遊びに行っていた。

小学校で対戦したライバル達が

元気に野球をしている姿を見ることが悔しかったのだ。


この甘い気持ちを振り払ってくれたのは

父親でも母親でもなく三才年上の姉だった。

姉は自宅から自転車で40分かかる高校で

ソフトボールの投手をしていた。

中学校時代から有名で九州各地の高校から誘いがあった。

その姉が夜10時頃帰宅し食事を摂る前に

シャドーピッチングをしていた。

目標は先輩を追い越し一年生からエースをとることだった。

意外にライバルは同級生にいたらしく、

今の自分は彼女より劣っていると感じたそうだ。

そんな姉が

『タカシ!毎日遊んでばかりいて何してんの!

野球しないならグローブ貰うよ!痛くても何かできるでしょ!』

その時は「うるせー!」と言葉を返したが、

日に日に情けなくなってきた。


のちに姉は二年生からエースとして投げぬいた。

そんな姉に影響を受け痛くても走る事を始めたが、

なかなか治らない。針治療、整骨院などに通ったが

それほど良くはならず「痛てー」が口癖になっていたとき

父親から一喝『うるせーぞ、こらー!痛てーと言っても治らねーん

だから、黙れ!痛くても走っとけ!』

体を痛めたこの時期にいろんなことを考えさせられた。

親、学校、友達、野球。

三年間を振り返ると走ること振ること腹背筋は

誰にも負けないくらい練習をしたと思う。

いつの間にか痛みも消え

気持ちと技術と体力が身についた三年間だった。

入学当時153cmだった身長が178cmになっていた。

私立高校からの誘いを断わり自宅から一番近い

公立高校に進学した。

e0089732_12594794.jpg

[PR]
by maeda_takashi | 2002-02-01 01:57 | 【自己紹介】
高校生時代
[高校生時代]

『好きにしなさい!』

高校に入学し、すぐには野球部に入部しなかった。

それは迷いがあったからだ。

友達や先輩から「入部はいつ?」「入部しないの?」

「早く入ろうよ」と何度も誘われた。

しかし本当は嫌だったのだ。野球は好きなのに

野球があるから嫌になることがあった。

それは父親の存在だった。

父親からの一方的強制説教(笑)に耐えることは

アントニオ猪木にしか出来ないほどのものだった。

私が帰宅し食事と同時に父親との会話が始まる。

議題は三項目で1.野球 2.勉強 3.友達である。

この三項目は完全に毎日行われた。

1.の野球は『今日の練習での目的は何だったのか?

その目的に対しどのように試したのか?

そして結果はどうだったか?』

2.の勉強は『今日の授業のなかで覚えているものを説明しろ!』

3.の友達は『どんなことでもいいから友達との会話、出来事を話せ!』

これが毎日2時間から3時間続くのだ。堪ったもんではない。

中学時代はこれとの戦いでもあった。

野球を辞めればなくなるのでは!?・・・と思っていた。しかし、

そうはいってもやっぱり野球が好きなのか入部を決定した。

練習中は水が飲めず汚い水をすくって飲んでいたことや

一日中バッティングで手の平が血だらけになったこと、

真夏のベースランニング100塁打、

腹筋背筋、腕立て、スクワット。

練習終了時のミーティング中、

蚊に刺されても動いてはいけなかったことをよく覚えている。

運良く一年生からレギュラーとなり、良い仲間達だったこともあり

お互い競い合い進学校ながら強いチームになっていった。

全員で甲子園を目指したがもう一歩届かなかった。

私の夢はプロ野球選手ではなく体育教師になることだった。

そんな中、2年生の夏が終わり、

いよいよ天下の三年生!というときに

学校での問題もあり退部を決断した。

父親には「成績も落ちてきたことだし勉強に専念するから、

筑波大学にいかせてくれ」と頼んだ。

父親は何もい言わず『好きにしろ!』と言った。

そして勉強に励んだ・・・と云いたいところだが、

ほとんど身が入らない毎日を過ごしていた。


それから一年二ヶ月経ったある日、プロ野球!・・・?

e0089732_12553167.jpg

[PR]
by maeda_takashi | 2002-02-01 01:56 | 【自己紹介】
ちょっと一息
【ちょっと一息】

[当時の親父の小言]

・朝の挨拶は爽やかに。

・いただきますとごちそうさまは手を合わせる。

・朝食は二杯食べる。

・おかわりするときは箸を置く。

・朝刊の太字は覚えよ。

・日本語は語尾が大切だ。

・友達には優しくしろ。

・二十歳になるまでは俺の話に耳をかせ。

・バイクは乗るな。

・女性とは浅く広く付き合え。

・服を脱ぐとき裏返すな。

・靴は揃えて脱げ。

・母親に感謝しろ。

こんなことを毎日聞かされていました。(笑)

今思えば本当に感謝しています。

e0089732_12545266.jpg

[PR]
by maeda_takashi | 2002-02-01 01:55 | 【自己紹介】
社会人野球時代
[ノンプロ時代]

高校二年生の夏で野球部を退部したにもかかわらず、

なぜ社会人野球をすることになったのか?

詳しくは話せませんが概略は、

高校三年生の夏、ある球団のスカウトが私を尋ねてきました。

「えっ!プロのスカウト!まさか!?」

スカウトは私が高校一、二年生の時の地区予選を見て

一年後三年生になった私をもう一度見に来たそうだ。

私が野球を辞めたことを知ったスカウトは、

『もう一度野球をしてみないか。

今からでもドラフト外での獲得を考えている』と言った。

私にとって夢のような話だったが、不安のほうが大きく

「一年間も野球をしていませんので・・・」と断わった。

スカウトは『では、野球を続けてみないか!』と言った。


野球が嫌いで辞めたわけではない私は、

「続ける気持ちはあります」と答えた。

母親はびっくりしていた、姉は『入団したら!』

父親は『自分で考えろ!』と言った。・・・中略。


それから本当の意味での自主トレーニングを開始した。

そして七ヶ月後には社会人チームのキャンプに参加していた。

チーム練習を一年半以上出来なかった私は、

パワーやスピード、野球への取り組みなど全てのことに驚いた。

平日は午前中仕事で午後から練習と決まっていた。

一年目がセンター、二年目がショート、三年目がサードを守った。

この三年間はバッティングよりも守備を重点的に取り組んだ。

青山シニアの子供達に「元気よく声を出しなさい!

エラーしてもグランドでは下を向かず

堂々としていなさい」と言っているが

当時の私も人一倍エラーをした。

しかし下は向かず大声を出していた。

そんな中、

自分なりに一生懸命に練習をしていたつもりだったが、

いつも何かが足りない気がしていた。

それは、目的と目標が明確ではなかったからだった。

小学生からの夢はプロ野球選手、パイロット、体育教師と

変わっていった。

しかし今、野球をしているのは何のためだ?

一度辞めた野球だからこそ長く野球を続けよう。

それから意識を高めプロ野球を目指した。


日本選手権には出場したが都市対抗には出場できず

あっという間に三年間は過ぎた。

他の選手にもドラフト候補がいたため

毎試合多くのスカウトが訪れた。


・・・・・・ドラフト会議までの出来事は秘密です。


ドラフト会議前日、ドラフト候補である先輩と一緒に

「二人ともドラフトにかかるといいな!」と話しながら眠った。


そしてドラフト会議当日グランドには当然記者がいた。

先輩と「もし、かからなかったら恥ずかしいな」

と話しながら笑った。

結局二人ともプロという土台にのった。

e0089732_1251269.jpg

[PR]
by maeda_takashi | 2002-02-01 01:54 | 【自己紹介】
プロ選手時代
[プロ選手時代]

先に言っておこう。

私はプロ野球を経験したが

本当のプロ野球選手にはなれなかった。

それはお客様を感動させられなかったからだ。

二軍の試合で

お客様が入場料を払って見に来てくれることに、

いつも申し訳なさを感じながらの選手時代だった。


しかし私にとって巨人軍での九年間は

人生の土台を固めていくための大きな経験をさせてくれた。

すばらしい人々と知り合い、

一流の監督、コーチに指導を受け、野球を覚え、

一流選手の考えや練習方法を見せて貰ったことだ。

現在は自分で経験したものプラス中学、高校の野球を

一から勉強している。

この九年間、多くの喜び、辛さ、悔しさを味わった。

一言では伝えきれない。


今、私は子供達が”いい男””いい女”になってくれることを

願っています。


・・・そして、一つだけ私の勝手な夢を言わせてください。

それは、いつの日か指導してきた選手達が、

お客様に本当の感動を与えられる選手になってくれることです。

                       ・・・Maeda
[PR]
by maeda_takashi | 2002-02-01 01:53 | 【自己紹介】